デヴィ夫人の昔の写真を見ると、現在のゴージャスなイメージとはまた違った、洗練された美しさが印象に残ります。大きな瞳、整った顔立ち、落ち着いた表情、そして華やかな装いを自然に着こなす姿には、若い頃から国際的な社交の場にふさわしい存在感がありました。
特に注目されるのが、27歳だった1967年頃の写真です。デヴィ夫人は2019年に自身の公式ブログで若い頃の写真を公開。さらに2020年10月には、長女カリナさんが生後6か月だった頃の写真をInstagramに掲載しました。本人の説明によれば、1967年9月、パリへ亡命した頃の記録です。
写真には、まだ20代だったデヴィ夫人と幼い娘の姿が写っています。大統領夫人としての華やかさだけでなく、激動の政治情勢のなかで母親として新しい生活を始めようとする姿も伝わる一枚です。オトナンサー、ABEMA TIMES、ナリナリドットコムなども、本人が公開した写真を紹介しています。
若い頃の画像を探す場合、特に見ておきたいのは次の3つの時期です。
- 10代後半:会社員や女優を目指していた日本での学生時代。
- 20代前半:スカルノ大統領夫人となり、インドネシアで過ごした時期。
- 27歳前後:娘カリナさんとともにパリへ渡った亡命前後の時期。
なお、ネット上で「デヴィ夫人の若い頃の写真」として紹介される画像には、19歳の頃だけでなく、20代後半やパリ時代の写真も含まれています。撮影時期と本人の年齢を確認すると、写真の背景をより正確に理解できます。
【生い立ち】本名は根本七保子!戦争と貧しさを経験した幼少期

デヴィ夫人は1940年2月6日、東京府東京市麻布区霞町(現在の東京都港区西麻布)に生まれました。日本名は根本七保子(ねもとなおこ)。インドネシア国籍取得後には、スカルノ大統領からラトナ・サリ・デヴィ・スカルノという名前を与えられています。
現在の華やかな暮らしからは想像しにくいものの、幼少期は決して裕福ではありませんでした。
父親は大工の棟梁でしたが、目を患い、母親も足が不自由だったと本人は語っています。家計には余裕がなく、戦争による空襲や食糧不足も経験しました。
2019年1月掲載の「Ms Wendy」の本人インタビューでは、空襲警報が鳴るたびに母親と弟とともに青山墓地の防空壕へ避難した記憶を振り返っています。東京大空襲が始まる前には、福島県浪江町へ疎開。終戦後に東京へ戻ってからも食べ物が不足し、母親に代わって農村へ買い出しに行ったそうです。
幼い頃から絵を描くことが得意で、母親は内職でお金を貯め、絵の先生をつけてくれました。しかし、女流画家として生計を立てることの難しさを知り、画家になる夢を諦めます。
母親が学費を工面するため、知人に頭を下げてお金を借りている姿を目にしたことも、大きな転機でした。金融広報中央委員会のインタビューで、デヴィ夫人は母親にこれ以上負担をかけず、自分が家族を支えようと考えた経緯を明かしています。
この経験は、後年の人生にも影響を与えました。華やかな生活を手に入れる以前に、家族を守るために自分の将来を考え、現実的な選択を重ねていたのです。
【学歴・仕事】都立三田高校の定時制と千代田生命を両立した10代
デヴィ夫人の若い頃を語るうえで欠かせないのが、仕事と勉強を両立していた時代です。
中学校を卒業した後、千代田生命(現在のジブラルタ生命)に入社。昼間は会社員として働き、夜は東京都立三田高校の定時制に通っていました。昼休みには喫茶店でアルバイトをするなど、家計を支えながら学業を続けていたといいます。
本人が2019年のインタビューで語ったところによると、千代田生命の採用倍率は約150倍といわれるほどの狭き門でした。単に美貌に恵まれたというだけではなく、学業と仕事を同時にこなす努力家でもあったことが分かります。
さらに、当時は女優になる夢も持っていました。六本木の東芸プロダクションに入り、演技や歌、踊りを学びながら、映画やテレビの小さな役にも出演していたそうです。
その後、千代田生命を退職。日本舞踊や茶道、生け花などを学び、自分を磨く生活へと移っていきました。
当時の主な経歴を整理すると、次のようになります。
| 時期・年齢 | 出来事 | 内容・背景 |
|---|---|---|
| 1940年 | 東京都に誕生 | 日本名は根本七保子 |
| 幼少期 | 戦争と貧困を経験 | 空襲や疎開、食糧不足を経験 |
| 中学卒業後 | 千代田生命に入社 | 本人の回想では採用倍率約150倍 |
| 10代後半 | 都立三田高校の定時制に通学 | 仕事やアルバイトと学業を両立 |
| 10代後半 | 芸能活動を志す | 東芸プロダクションで演技などを学ぶ |
| 19歳・1959年 | スカルノ大統領と出会う | インドネシアへ渡る転機に |
| 22歳頃・1962年 | インドネシア国籍を取得 | ラトナ・サリ・デヴィ・スカルノの名を得る |
| 1967年 | パリへ亡命 | 幼い娘カリナさんと新生活を始める |
| 1980年 | インドネシアへ戻る | 事業に取り組む |
| 1991年 | ニューヨークへ移住 | その後、日本を活動拠点とする |
この経歴から見えてくるのは、若い頃から複数の能力を身につけていたことです。英語、芸能、教養、社交の作法など、後に海外で活動するための基礎を日本で積み重ねていました。
【赤坂コパカバーナ】高級クラブで磨いた英語力と社交性
デヴィ夫人の人生を大きく変える舞台の一つが、東京・赤坂にあった高級サパークラブ「コパカバーナ」です。
本人が「Ms Wendy」のインタビューで語ったところによると、ある人物に連れられて訪れたのが、この外国人VIPにも知られた社交場でした。当時、客の約9割が外国人だったといいます。
ここでデヴィ夫人は、クラブのマダムに気に入られ、働くようになりました。仕事を通して外国人客と接する機会が増え、英語での会話や国際的なマナーを実践的に身につけていきます。
重要なのは、コパカバーナで得たものが収入だけではなかったことです。茶道や生け花、日本舞踊などで培った日本文化への理解と、英語によるコミュニケーション能力が組み合わさり、外国人の要人や富裕層が集まる場所でも自然に振る舞えるようになりました。
2022年12月の光文社「Smart FLASH」の報道でも、デヴィ夫人は高級サパークラブで働いていた当時のことを振り返っています。本人の説明では、当時の接客は現在の一般的なクラブとは異なり、男性客が女性客にライターを差し出すような社交文化があったそうです。
つまり、赤坂での経験は、後の大統領夫人としての生活につながる準備期間でもありました。美貌だけでなく、外国語、教養、立ち居振る舞いが評価される環境に身を置いていたのです。
【19歳の運命の出会い】スカルノ大統領と結婚するまで
1959年、デヴィ夫人が19歳のとき、インドネシアの初代大統領スカルノとの出会いが訪れます。
出会いの経緯については、本人が複数のインタビューやテレビ番組で振り返っています。日本を訪れていたスカルノ大統領と、友人との待ち合わせ中に偶然接点を持ったことがきっかけでした。
2017年の日刊スポーツの報道によると、デヴィ夫人は友人と映画を見に行くために待ち合わせをしていたところ、大統領一行が通りかかり、声を掛けられたと説明しています。
一方、2022年のオリコンニュースでは、従者から大統領のティーパーティーに誘われた経緯や、その後の文通について紹介しています。本人によれば、出会いから約3か月後、インドネシアへ2週間ほど遊びに来ないかと招待されたそうです。
ジャカルタで目にしたスカルノ大統領の姿も、彼女の決断に影響しました。独立を成し遂げ、国民から敬愛される国家指導者としての姿に心を動かされたと、本人は2019年のインタビューで振り返っています。
そして、インドネシアでの生活を決意。大統領との結婚を経て、国際的な立場を得ることになります。
ここで注意したいのが、結婚年と22歳の出来事を混同しないことです。テレビ東京の公式番組プロフィールは、1959年6月に出会い、同年11月にジャカルタで結婚したと記載しています。一方、本人のインタビューでは、22歳のときに母と弟を亡くし、その後インドネシア国籍を取得した経緯が語られています。
つまり、よく紹介される「22歳で大統領夫人」という略歴は、当時の人生の転機をまとめた表現として理解する必要があります。22歳で初めて結婚したという意味に限定すると、本人の証言やテレビ東京のプロフィールと整合しません。
インドネシア国籍を取得した際、スカルノ大統領から与えられた名前がラトナ・サリ・デヴィ・スカルノです。こうして日本の根本七保子から、国際的に知られるデヴィ・スカルノへと人生が変わっていきました。
【東洋の真珠】インドネシア政変とパリ亡命の経緯
大統領夫人となったデヴィ夫人は、世界各国の要人と交流する立場になりました。金融広報中央委員会のインタビューでは、約10年間にわたってスカルノ大統領を支えたことが紹介されています。
しかし、インドネシアの政治情勢は大きく変化します。
1965年の政変以降、スカルノ大統領の政治的立場は弱まり、1967年には事実上の権力移行が進みました。大統領が厳しい状況に置かれるなか、デヴィ夫人も安全な生活を維持することが難しくなっていきます。
デヴィ夫人自身は公式ブログで、1967年に生後6か月の娘カリナさんを連れてパリへ亡命した経緯を説明しています。2020年に公開した写真にも、1967年9月の亡命当時の姿が残されています。
この時期には、サンフランシスコやニューヨークを経由してパリへ向かったことも本人の発信で紹介されています。華やかな宮殿生活から、政治的な不安を抱えながら海外で暮らす生活への転換でした。
パリに渡った後、デヴィ夫人は社交界で活躍するようになります。そこで広まった呼び名が「東洋の真珠」です。
「Ms Wendy」のインタビューでは、パリの社交界で王侯貴族や各界の著名人と交流したことが紹介されています。美しい肌や容姿だけでなく、日本文化への理解、外国語の能力、国際社会での経験が、その評価を支えていたと考えられます。
なお、亡命の年については資料によって表現に違いがあります。本人の公式ブログや1967年9月の写真に関する本人の説明は1967年を示しています。一方、テレビ東京の2007年のプロフィールは、1970年6月のスカルノ大統領の死去後にパリへ亡命したと記しています。本人が公開した写真の撮影時期と、後年の略歴における記述を分けて確認することが大切です。
その後、1980年にインドネシアへ戻り、事業に取り組みました。1991年にはニューヨークへ移住し、2000年前後から日本のテレビ番組への出演が増えていきます。国際的な社交家から、日本の視聴者に広く親しまれるタレントへと活動の幅を広げていきました。
【2026年現在】86歳のデヴィ夫人と若い頃から変わらない存在感
デヴィ夫人は1940年2月6日生まれのため、2026年10月31日現在は86歳です。
2026年2月には86歳の誕生日を迎え、国連UNHCR協会へのチャリティーパーティーを開催したことが日刊スポーツで報じられました。9月には大相撲秋場所を観戦した姿も報道されています。
若い頃の写真と現在の姿を比べると、時代に合わせてファッションやヘアスタイルは変化していますが、華やかな装いを楽しむ姿勢や、人前で堂々と振る舞う存在感には共通するものがあります。
また、2026年8月には公式Instagramで愛犬とのイベントの様子を発信したことも報じられています。テレビ出演だけでなく、動物愛護やチャリティーに関する活動も続けています。
若い頃の美しさを語る際には、顔立ちだけでなく、長年にわたって培われた自己表現や美意識にも目を向けたいところです。本人は2026年2月の誕生日パーティーで、若さの秘訣について精神力や美しいものに囲まれる生活を挙げたと報じられています。
19歳で日本を離れ、異国の文化や政治の世界に身を置き、政変による亡命も経験した女性が、86歳になった今も公の場に姿を見せている。その歩みそのものが、若い頃の写真に映る美しさに奥行きを与えています。
【デヴィ夫人若い頃】に関するよくある質問(FAQ)
Q1:デヴィ夫人の若い頃の本名は何ですか?
A1:日本名は根本七保子(ねもとなおこ)です。インドネシア国籍を取得した後、スカルノ大統領からラトナ・サリ・デヴィ・スカルノという名前を与えられました。
Q2:デヴィ夫人は若い頃、どこの高校に通っていましたか?
A2:東京都立三田高校の定時制に通っていました。千代田生命で働きながら夜間に勉強し、仕事と学業を両立していたことを本人がインタビューで語っています。
Q3:デヴィ夫人は何歳でスカルノ大統領と出会いましたか?
A3:19歳です。1959年に日本を訪れていたスカルノ大統領と出会いました。テレビ東京のプロフィールでは同年11月に結婚したとされています。
Q4:デヴィ夫人が働いていた赤坂のクラブはどこですか?
A4:「コパカバーナ」という高級サパークラブです。外国人客が多く集まる社交場で、英語力や国際的なマナーを磨く機会になりました。
Q5:デヴィ夫人が「東洋の真珠」と呼ばれたのはなぜですか?
A5:パリの社交界で、その美貌や気品、国際的な存在感が評価されたためです。王侯貴族や各界の著名人との交流もあり、この呼び名が広まりました。
Q6:デヴィ夫人は何歳でパリに亡命しましたか?
A6:本人が公開した1967年9月の写真によれば、27歳の頃です。幼い娘カリナさんを連れてパリへ渡りました。
Q7:デヴィ夫人は2026年現在、何歳ですか?
A7:1940年2月6日生まれのため、2026年10月現在は86歳です。
デヴィ夫人の若い頃を振り返ると、印象的なのは美しい写真だけではありません。戦争と貧困を経験した幼少期、千代田生命での勤務、都立三田高校の定時制での勉強、赤坂コパカバーナでの仕事、そして19歳でのスカルノ大統領との出会い。それぞれが、その後の人生を形づくる重要な出来事でした。
27歳の頃に娘と写った写真には、後に「東洋の真珠」と呼ばれる美しさと、激動の時代を生きた一人の女性の姿が残されています。
若い頃の写真を探す際は、撮影年や年齢、インドネシア時代とパリ時代の違いを確認するのがおすすめです。単に「昔の美人写真」として見るだけでは分からない、当時の社会情勢や本人の人生の転機が見えてきます。
2026年に86歳を迎えたデヴィ夫人。その華やかな姿の原点には、若い頃から積み重ねてきた努力、教養、行動力、そして何度も人生を切り開いてきた決断力がありました。