若嶋津六夫さんは、1957年1月12日、鹿児島県熊毛郡中種子町、種子島で生まれました。本名は日高六男(ひだか・むつお)。最高位は東大関で、二子山部屋に所属した力士です。
日本相撲協会の公式プロフィールによると、身長は188センチ。得意技は左四つ、上手投げ、吊りでした。
師匠は、第45代横綱・初代若乃花が率いた二子山親方です。若嶋津さんは1975年3月場所に本名の日高で初土俵を踏みました。
同期には、後に大関となる霧島や、関脇まで昇進した太寿山らがいました。若い頃から厳しい稽古環境で力を磨き、着実に番付を上げていきます。
若嶋津六夫の基本プロフィール| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 四股名 | 若嶋津六夫 |
| 読み方 | わかしまづ・むつお |
| 本名 | 日高六男 |
| 生年月日 | 1957年1月12日 |
| 没年月日 | 2026年3月15日 |
| 没年齢 | 69歳 |
| 出身地 | 鹿児島県熊毛郡中種子町 |
| 所属部屋 | 二子山部屋 |
| 最高位 | 東大関 |
| 初土俵 | 1975年3月場所 |
| 新入幕 | 1981年1月場所 |
| 大関昇進 | 1983年1月場所 |
| 幕内優勝 | 2回 |
| 通算成績 | 515勝330敗21休 |
| 引退 | 1987年7月場所 |
| 得意技 | 左四つ・上手投げ・吊り |
| 妻 | 高田みづえ |
出典:日本相撲協会公式力士プロフィール、スポーツ各紙の訃報・経歴報道。
若嶋津さんの魅力は、単に体格や力に頼る相撲ではありませんでした。身長188センチの恵まれた体格を生かしながら、素早い動きと技術で相手を崩すスタイルを確立していきます。
1980年3月場所で新十両に昇進し、1981年1月場所には新入幕。幕内に上がった最初の場所で10勝5敗を記録し、敢闘賞を受賞しました。
ここから、昭和の相撲ファンに強烈な印象を残す大関への道が始まります。
【大関昇進と幕内優勝2回】若嶋津の全盛期を時系列で解説

若嶋津さんの競技人生における大きな転機は、1982年から1983年にかけて訪れました。
1982年には小結、続いて関脇へと昇進。特に同年秋場所と九州場所では、いずれも12勝を挙げる活躍を見せました。
この安定した成績が評価され、1982年九州場所後に大関昇進が決定。1983年1月場所から正式に大関として土俵に上がりました。
日本相撲協会の記録でも、大関在位は昭和58年1月場所から昭和62年7月場所までとされています。
1984年に達成した2度の幕内優勝若嶋津さんの現役時代を語るうえで欠かせないのが、1984年の活躍です。
1984年3月場所では14勝1敗で初優勝。さらに同年7月の名古屋場所では、15日間を全勝で駆け抜け、2度目の幕内優勝を果たしました。
同一年に2度の賜杯を手にした実績は、大関としての実力を示す大きな勲章です。
一方、横綱昇進には届きませんでした。大関として優勝を重ねながらも、綱取りという高い壁を越えることはできなかったのです。
若嶋津六夫の主な経歴・年表出典:日本相撲協会、スポニチアネックス、日刊スポーツの経歴報道。
通算成績515勝330敗21休が示す実力若嶋津さんの通算成績は、515勝330敗21休(75場所)です。
幕内だけを見ると356勝219敗13休、大関としては250勝145敗13休を記録しています。
また、三賞は敢闘賞2回、技能賞3回。金星も2個獲得しました。
特筆すべきなのは、大関として28場所を務めたことです。幕内優勝2回という華やかな実績だけでなく、長期間にわたって上位で戦い続けた安定感も評価されるべきポイントです。
【南海の黒豹とは?】若嶋津が昭和の人気力士になった理由
若嶋津さんを象徴する愛称が「南海の黒豹」です。
この呼び名は、南国・鹿児島出身らしい浅黒い肌と、豹を思わせる俊敏な動きに由来します。
当時の大相撲では、力強い押し相撲や大型力士の豪快な取り口が注目される一方、若嶋津さんは軽快な動きと技術を組み合わせた相撲で存在感を示しました。
左四つからの攻めと俊敏な動き若嶋津さんの得意技は左四つ、上手投げ、吊りです。
相手との組み合いで左を差し、体勢を整えてから寄りや投げにつなげる技術が持ち味でした。
体重に頼った単純な力勝負ではなく、相手の動きに対応しながら勝機を見いだす取り口です。
この特徴が「黒豹」という愛称とも結びつき、相撲に詳しくない人にも印象に残る力士となりました。
甘いマスクと高い知名度人気を支えたのは、土俵上の強さだけではありません。
精悍な顔立ちと華やかな存在感は、当時の女性ファンからも支持を集めました。
さらに、人気歌手との結婚も大きな話題となり、スポーツニュースだけでなく芸能ニュースでも名前が取り上げられるようになります。
1980年代の若嶋津さんは、競技実績と大衆的な知名度を兼ね備えた力士だったのです。
【高田みづえとの結婚】人気歌手と大関が築いた夫婦の歩み
若嶋津さんの人生を語るうえで、妻の高田みづえさんの存在は欠かせません。
高田みづえさんは鹿児島県出身の元アイドル歌手です。若嶋津さんとは同郷という共通点もあり、1980年代に大きな注目を集めたカップルでした。
1985年9月27日に結婚2人は1985年2月に婚約を発表し、同年9月27日にホテルニューオータニで結婚式を挙げました。
当時、若嶋津さんは大関として活躍しており、高田さんも人気歌手として知られていました。
結婚披露宴はテレビ朝日系列で生中継され、報道によると視聴率は30.2%を記録しています。
芸能界と相撲界を代表する人気者同士の結婚は、当時の社会的な関心の高さを物語る出来事でした。
高田みづえさんは結婚後に芸能界を引退高田さんは結婚を機に芸能活動から退き、相撲部屋のおかみとして若嶋津さんを支える生活に入りました。
夫が現役力士から親方へと転身すると、部屋の運営や弟子たちの生活を支える立場も担いました。
2人の間には1男1女がいます。
- 長男:勝信さん(元俳優)
- 長女:アイリさん(女優・モデル)
長女のアイリさんは、テレビ出演などを通じて父親の人柄を紹介しています。
2020年放送の「戦え!スポーツ内閣」では、父親について「びっくりするくらい感動屋ですぐ泣きます」と話し、基本的には無口で、母親がよく話す家庭だったと紹介しました。
土俵では厳しい勝負を繰り広げた大関も、家庭では穏やかな父親だったことがうかがえます。
また、若嶋津さんは東京ヤクルトスワローズのファンとしても知られ、場所のない時期には妻と神宮球場などで野球観戦を楽しんでいたと伝えられています。
相撲一筋の人生のなかにも、家族と過ごす時間や趣味を大切にする一面がありました。
【2017年の転倒・頭部手術】療養生活と親方としての晩年
若嶋津さんの晩年を語るうえで、大きな転機となったのが2017年10月19日の転倒事故です。
当時60歳だった若嶋津さんは、千葉県船橋市内の路上で倒れているところを通行人に発見されました。
その後、市内の病院へ救急搬送され、頭部の緊急手術を受けました。
当時の報道によると、手術は約4時間半に及び、集中治療室で治療を受ける状況でした。
長期のリハビリ生活へ事故後は生命の危機を脱したものの、以前のように活動することは難しくなりました。
その後も長期にわたるリハビリ生活が続きます。
2023年12月に東京都内で開かれた「感謝の集い」では、家族に車椅子を押されて登場しました。
この会には後援会関係者や相撲部屋の関係者、松鳳山ら部屋のOBなど約400人が出席。
若嶋津さんは、相撲界に入ってから48年を振り返り、関取を7人育てられたことへの感謝を伝えました。
身体的な困難を抱えながらも、弟子や関係者とのつながりを大切にしていたことが分かる出来事です。
松ケ根部屋から二所ノ関親方へ若嶋津さんは1987年7月場所で現役を引退した後、年寄「松ケ根」を襲名しました。
1990年2月には二子山部屋から独立し、松ケ根部屋を創設。親方として後進の育成に力を注ぎます。
2014年には日本相撲協会の理事に就任し、同年12月に年寄「二所ノ関」を襲名しました。
この襲名によって、歴史ある二所ノ関部屋の名称も復活しました。
その後の主な経歴は次のとおりです。
- 1987年:年寄「松ケ根」を襲名
- 1990年:松ケ根部屋を創設
- 2014年:日本相撲協会理事に就任
- 2014年12月:年寄「二所ノ関」を襲名
- 2021年12月:放駒親方に部屋を継承し、元横綱稀勢の里の荒磯親方と名跡を交換
- 2022年1月:協会の定年を迎え、参与として再雇用
- 2023年7月:日本相撲協会を退職
なお、2021年の名跡交換後は荒磯親方となっています。「二所ノ関親方」という呼び名が使われることもありますが、晩年の正式な名跡の変遷を理解するには、この交換を押さえておく必要があります。
一山本・松鳳山ら7人の関取を育成親方としての大きな功績は、7人の関取を育てたことです。
代表的な弟子には次の力士がいます。
- 松鳳山:最高位は小結
- 一山本:幕内で活躍する力士
- 島津海:関取として活躍
- 若孜
- 若光翔
- 若東龍
- 春ノ山
特に松鳳山と一山本は、若嶋津さんの指導を受けた力士として知られています。
2026年3月の通夜・葬儀にも一山本や松鳳山らが参列し、師匠との別れを惜しみました。
若嶋津さんの功績は、自らが賜杯を手にしたことだけではありません。引退後も部屋を構え、次の世代に相撲の技術や精神を伝えたことにもあります。
【2026年3月15日に死去】死因は肺炎、通夜・葬儀の日程と参列者
2026年3月15日、元大関若嶋津さんの訃報が伝えられました。
日本相撲協会は翌16日、元二所ノ関親方の日高六男さんが15日に肺炎のため千葉県内の病院で亡くなったと発表しました。
享年69歳。
スポーツニッポンの報道によると、亡くなったのは3月15日午前11時34分。妻のみづえさんによれば、前年夏ごろから体調を崩し、療養・入院生活を送っていたといいます。
家族に見守られながら最期を迎えたことも報じられました。
死因は肺炎だった若嶋津さんの死因として公表されたのは肺炎です。
2017年の転倒事故では頭部の手術を受け、その後長期の療養生活を送っていました。
ただし、2017年の転倒と2026年の死去を直接結び付ける医学的な説明は公表されていません。
検索時に両方の出来事が並んで表示されることがありますが、死亡原因として発表されたのは肺炎です。
この2つの出来事は分けて理解する必要があります。
通夜は3月23日、葬儀・告別式は3月24日通夜と葬儀は千葉県市川市内で営まれました。
日程と主な内容は以下のとおりです。
2026年3月23日
通夜約400人
午後6時から。妻のみづえさんら遺族が参列者を迎えた。
2026年3月24日
葬儀・告別式約300人
午前10時から。妻のみづえさんが喪主を務めた。
通夜には、元横綱若乃花の花田虎上さん、二所ノ関親方(元横綱稀勢の里)、横綱大の里、高安、一山本、島津海らが参列しました。
告別式には日本相撲協会の八角理事長(元横綱北勝海)や元大関琴風ら約300人が参列しています。
弔辞を読み上げたのは、元大関琴風の尾車浩一さんでした。
現役時代に競い合った仲間であり、長年にわたり親交を深めてきた琴風さんは、若嶋津さんへの思いを込めて故人をしのびました。
一山本・松鳳山ら弟子たちも最後の別れ葬儀では、若嶋津さんが育てた弟子たちの姿もありました。
一山本や松鳳山、島津海ら、かつての部屋にゆかりのある力士たちが参列しています。
師匠が長い療養生活を送っていたこともあり、訃報は相撲界に大きな悲しみをもたらしました。
一山本は若嶋津さんのもとで育った力士の一人であり、松鳳山も小結まで昇進した代表的な弟子です。
通夜に集まった約400人、告別式に参列した約300人という数字からも、現役時代の人気だけでなく、親方として築いた人間関係の広さが伝わってきます。
【若嶋津六夫】に関するよくある質問(FAQ)
Q1:若嶋津六夫さんはいつ亡くなりましたか?
A1:2026年3月15日です。69歳で、死因は肺炎でした。日本相撲協会が翌16日に発表しています。
Q2:若嶋津六夫さんの通算成績と優勝回数は?
A2:通算成績は515勝330敗21休(75場所)です。幕内優勝は2回で、1984年3月場所に14勝1敗、同年7月場所には15戦全勝で優勝しました。
Q3:若嶋津六夫さんの妻は誰ですか?
A3:妻は元アイドル歌手の高田みづえさんです。1985年2月に婚約を発表し、同年9月27日に結婚しました。2人の間には長男の勝信さんと長女のアイリさんがいます。
若嶋津六夫さんは、鹿児島県種子島から角界に入り、大関まで上り詰めた昭和を代表する人気力士でした。
1983年の大関昇進、1984年の幕内優勝2回、通算515勝330敗21休という実績は、長年にわたって相撲界の第一線で活躍した証しです。
「南海の黒豹」と呼ばれた俊敏な相撲と精悍な風貌は、多くのファンの記憶に残っています。
引退後は松ケ根部屋を創設し、二所ノ関親方として相撲界の発展に尽力しました。松鳳山や一山本をはじめ、7人の関取を育てた功績も忘れられません。
2017年の転倒事故と長期療養という困難を経て、2023年には相撲協会を退職。そして2026年3月15日、肺炎のため69歳で人生の幕を閉じました。
【プロの結論】若嶋津六夫さんを評価する際に注目すべきなのは、現役時代の優勝回数だけではありません。
大関として28場所を務めた競技者としての実績、引退後に7人の関取を育てた指導者としての功績、そして高田みづえさんと築いた家庭生活。この3つを合わせて見ることで、その人物像がより立体的になります。
若嶋津さんが残したものは、2つの賜杯だけではありません。相撲界の後進に受け継がれた技術と精神、そして昭和の大相撲を彩った「南海の黒豹」という忘れがたい存在感です。