2026年現在も読売ジャイアンツでプレーを続ける坂本勇人。通算300本塁打を達成し、長年にわたって球界を代表する内野手として活躍してきた彼にも、少年野球に打ち込んでいた時代や、進学先がなかなか決まらなかった高校入学前の苦労があった。現在の堂々とした姿からは想像しにくい、若い頃の意外なエピソードも少なくない。
坂本勇人の昔の写真や若い頃のイケメンぶりに関心を持つ人も多いが、その魅力は外見だけではない。田中将大との少年野球、光星学院高校での成長、金沢成奉監督との出会い、2006年の高校生ドラフト1巡目での巨人入団、そして2008年のレギュラー定着までを振り返ると、現在につながる野球人生の原点が見えてくる。
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> - 幼少期: 兵庫県伊丹市の昆陽里タイガースで野球を始め、少年時代には田中将大とバッテリーを組んでいた。
> - 高校時代: 光星学院で1年秋からレギュラーを獲得。金沢成奉監督との出会いがプロへの道を開いた。
> - プロ入り後: 2006年高校生ドラフト1巡目で巨人に入団。2008年には144試合に出場してレギュラーに定着した。
【幼少期】坂本勇人は田中将大と少年野球でバッテリーを組んでいた

坂本勇人は1988年12月14日、兵庫県で生まれた。
野球との出会いは非常に早い。本人が2020年に週刊ベースボールのインタビューで語ったところによると、6歳年上の兄が少年野球チームに所属していたこともあり、幼稚園の頃から練習について行っていたという。
当時から野球が好きで、チームの朝練習にも参加していた。正式に入団したのは小学1年生のとき。所属していたのは兵庫県伊丹市の少年野球チーム「昆陽里タイガース」だった。
田中将大との出会いは小学1年生の頃坂本勇人の幼少期を語るうえで欠かせないのが、後に楽天やニューヨーク・ヤンキースなどで活躍する田中将大との関係だ。
2人は同じ昆陽里タイガースでプレーした少年時代からの仲間。小学生時代には、坂本が投手、田中が捕手というバッテリーを組んでいた。
2025年9月、田中将大が日米通算200勝を達成した際、坂本は少年時代を振り返っている。
坂本によると、田中は小学生の頃から体が大きく、当時の投球や二塁への送球にも高い能力を見せていたという。一方、走る速さについては自分の方が上だったと懐かしそうに語っていた。
打撃練習では2人で飛距離を競い、校舎に向かって軟式ボールを打っていたというエピソードも紹介されている。
幼い頃から同じチームで競い合った2人が、後に日本を代表するプロ野球選手になったことは興味深い。
小学5年生から毎日5〜6キロ走っていた坂本の少年時代には、意外な努力の習慣もあった。
2023年12月に高木豊氏のYouTubeチャンネルへ出演した際、坂本は小学5年生頃から毎日5〜6キロのランニングを続けていたことを明かしている。
母親と毎日練習する約束をしていたことがきっかけだったという。
本人も後年、走り込みによって基礎体力が身についたと振り返っている。
また、幼少期には左右両方で打つスイッチヒッターにも挑戦していた。小学5年生頃に右打ちへ専念した理由は、右打席の方が打球を遠くに飛ばせたことと、両打ちには倍の練習が必要だと聞いていたためだった。
こうしたエピソードからは、早い時期から身体能力を伸ばす努力を重ねていた様子がうかがえる。
【高校進学前】坂本勇人を救った金沢成奉監督との運命的な出会い
現在の坂本勇人からは想像しにくいが、高校進学前には進路がなかなか決まらない時期があった。
2023年12月のスポニチアネックスの報道によると、当時の坂本には地元周辺の高校から獲得の誘いがなかったという。
希望していた高校にも進めなかった坂本が当初、進学先として希望していたのは香川県の尽誠学園だった。
理由は、ユニホームが格好よかったから。プロ野球選手になれると確信していたわけではなく、野球を続けられる高校を探していた時期だった。
実際に尽誠学園の練習にも参加したものの、獲得には至らなかった。
進学先が決まらず困っていた坂本に転機をもたらしたのが、近所の人からの紹介だった。
紹介されたのは、青森県の光星学院高校を率いていた金沢成奉監督である。
金沢成奉監督は坂本の打撃を見て才能を見抜いた2003年秋、当時の金沢監督とコーチの仲井宗基氏は、兵庫県伊丹市にいる坂本のプレーを見る機会を得た。
日刊SPA!が2023年に掲載した母校関係者への取材記事によると、金沢監督は中学3年生だった坂本のティー打撃を見て、獲得を決断した。
注目したのは、身体をしならせるようなスイングだった。
身体の使い方が柔らかく、バットに効率よく力を伝えられる点に、教えられて簡単に身につくものではない才能を感じたという。
実際、コーチの仲井氏も入学後に坂本のプレーを見て、その能力の高さに納得したと振り返っている。
2004年春、坂本は光星学院高校に入学した。
進学先が決まらず苦労していた中学生が、指導者の目に留まったことでプロへの道を切り開いたのである。
この出会いがなければ、後の巨人・坂本勇人のキャリアも違ったものになっていたかもしれない。
【光星学院高校時代】1年秋からレギュラー!甲子園で見せた実力
2004年春に光星学院へ入学した坂本は、強豪校の中でも早くから存在感を示した。
特に注目したいのは、1年生の秋には遊撃手のレギュラーを獲得していたことだ。
高校野球の強豪校では、上級生がポジションを占めるケースも珍しくない。その中で、入学から間もない坂本が試合に出続けたことは、当時から高い能力を持っていた証拠といえる。
高校2年生の夏にも強烈なインパクト日刊SPA!が八戸学院光星の関係者に取材した記事では、2005年夏の青森大会決勝での活躍が紹介されている。
光星学院は青森山田に1対8で敗れたものの、坂本はチーム唯一の得点となる本塁打を放った。
さらに、2006年の東北大会決勝では仙台育英を相手に3安打7打点を記録。広い球場でも長打を放つ能力が際立っていた。
2006年春のセンバツで4番・ショート高校3年生となった2006年、坂本は春の選抜高校野球大会に出場する。
光星学院の中心選手として、打順は4番、守備位置はショートだった。
初戦の相手は岡山県の関西高校。
チームは4対6で敗れたが、坂本は5打数3安打の活躍を見せた。大会注目の投手からも安打を放ち、プロのスカウトに能力を印象づけた。
ただし、夏の甲子園には出場していない。
2006年夏の青森大会決勝でも青森山田と対戦したが、4対5で敗退。高校生活最後の夏は甲子園に届かなかった。
それでも、高校通算39本塁打という長打力、俊足、遊撃手としての守備能力は高く評価されていた。
【2006年高校生ドラフト】坂本勇人は巨人の外れ1位だった?
2006年9月、坂本勇人の人生を大きく変える出来事が起きた。
高校生ドラフトで読売ジャイアンツから1巡目指名を受けたのである。
日本野球機構(NPB)の2006年ドラフト公式記録にも、光星学院高校の坂本勇人が高校生選択会議の1巡目で指名されたことが記載されている。
実際には堂上直倫の抽選を外した後の指名このドラフトには少し興味深い背景がある。
巨人が最初に1巡目で指名を狙っていたのは、愛工大名電の堂上直倫だった。
阪神、中日との競合となり、巨人は抽選で交渉権を獲得できなかった。
その後、巨人が指名したのが坂本だった。
つまり、坂本は制度上の高校生ドラフト1巡目指名選手であり、一般に「外れ1位」と呼ばれる指名経緯を持つ。
実は巨人への入団を喜んでいたわけではなかった2023年12月、坂本は高木豊氏のYouTubeチャンネルでドラフト当時の心境を振り返った。
意外にも、巨人から指名されたことに対して驚きが大きかったという。
当時の巨人には遊撃手の二岡智宏がいたため、試合に出られるのか不安を感じていた。
また、高校時代を青森県で過ごしていたこともあり、関西に戻りたい気持ちがあった。本人が希望していた球団は阪神だったという。
さらに、下位指名だった場合には社会人野球のHonda鈴鹿へ進むことも考えていたと明かしている。
結果的には巨人への入団を決断し、2007年からプロ野球選手としての生活が始まった。
【巨人入団後】2007年のプロ1年目から2008年のレギュラー定着まで
2007年、坂本は読売ジャイアンツに入団した。
プロ1年目の背番号は61。現在の背番号6とは異なり、まだ若手選手として一軍での出場機会をうかがう立場だった。
NPBの公式年度別成績を確認すると、2007年の一軍出場は4試合。打席数は3、安打は1本、打率は.333、打点は2だった。
この数字だけを見ると目立った活躍には見えないが、翌年に大きな飛躍を遂げることになる。
2008年、19歳で開幕スタメンに抜擢プロ2年目の2008年、坂本は大きなチャンスをつかんだ。
開幕戦では19歳の若さでスタメンに抜擢された。
集英社新書プラスの2008年シーズンを振り返る記事によると、当初は二塁手として起用され、その後、遊撃手の二岡智宏が故障で離脱したことで、坂本がショートを任されるようになった。
このポジション変更が、坂本のレギュラー定着につながった。
4月6日の阪神戦では、プロ初本塁打となる満塁ホームランも記録。19歳での大きな一発は、若手内野手としての存在感を一気に高めた。
2007年と2008年の成績を比較| 項目 | 2007年 | 2008年 |
|---|---|---|
| 年齢 | 18〜19歳 | 19歳 |
| 一軍出場試合 | 4試合 | 144試合 |
| 打席 | 3 | 567 |
| 安打 | 1 | 134 |
| 打率 | .333 | .257 |
| 本塁打 | 0 | 8 |
| 打点 | 2 | 43 |
| 盗塁 | 1 | 10 |
| 背番号 | 61 | 61 |
出典:日本野球機構(NPB)公式年度別成績。
2008年の成績を見ると、坂本が一気に一軍の主力へ成長したことが分かる。
特に注目したいのは、144試合すべてに出場した点だ。
打率.257という数字だけで評価するのではなく、19歳でシーズンを通して遊撃手として起用され、134安打、8本塁打、43打点を記録したことに価値がある。
翌2009年には打率.306、178安打、18本塁打を記録し、ベストナインにも選出された。
2008年は、後の球界を代表する遊撃手が誕生した重要なシーズンだった。
【若い頃の写真と2026年現在】186cmの坂本勇人はどう成長した?
坂本勇人の若い頃の写真を探している人にとって、特に比較しやすいのは次の3つの時期だ。
- 2006年: 光星学院高校時代。甲子園出場やドラフト指名時の写真。
- 2007年: 巨人入団直後。背番号61を着用していた新人時代。
- 2008年: 19歳でレギュラーに定着し、プロ初本塁打を放った時期。
昔の写真を比較するときには、撮影された年やユニホームの背番号にも注目したい。
昔の写真で注目される若々しい印象と背番号坂本の若い頃の写真については、イケメンという外見上の評価と、野球選手としての成長を分けて見ると分かりやすい。
高校時代や新人時代の写真は、現在の経験豊富なベテラン選手としての姿とは異なる、10代ならではの若々しい印象を伝えている。
特に分かりやすいのが背番号の変化だ。
2007年と2008年は背番号61だったが、2008年の活躍を受け、2009年から背番号6に変更された。
2008年11月の報道では、原辰徳監督が坂本に新しい背番号6を与える方針を示したことが紹介されている。
背番号61から6への変更は、単なる番号の変更ではない。若手から巨人の中心選手へと期待される立場に変わったことを象徴する出来事だった。
2026年現在のプロフィール日本野球機構の2026年度選手情報によると、坂本の基本プロフィールは次のとおり。
| 項目 | 2026年時点の情報 |
|---|---|
| 名前 | 坂本勇人 |
| 生年月日 | 1988年12月14日 |
| 年齢 | 37歳 |
| 出身地 | 兵庫県 |
| 身長 | 186cm |
| 体重 | 86kg |
| 投打 | 右投右打 |
| ポジション | 内野手 |
| 所属 | 読売ジャイアンツ |
| 背番号 | 6 |
| ドラフト | 2006年高校生ドラフト1巡目 |
| 出身高校 | 光星学院高校 |
出典:NPB公式選手名鑑。
2026年シーズンの成績と現在の立場2026年シーズンの坂本は、若い頃のように毎試合スタメンで出場する立場から、チームを支えるベテランへと役割が変化している。
2026年のシーズン成績は以下のとおり。
| 成績項目 | 2026年 |
|---|---|
| 試合数 | 67 |
| 打席 | 173 |
| 安打 | 27 |
| 打率 | .175 |
| 本塁打 | 5 |
| 打点 | 19 |
| 出塁率 | .260 |
| 長打率 | .305 |
| OPS | .565 |
2026年10月の報道によると、坂本は5月13日の広島戦で通算300本塁打を達成した。
一方、シーズン打率は.175となり、プロ入り後初めて2割を下回った。
ただし、代打成績は打率.333。限られた打席で勝負強さを見せた場面もあり、ベテランとしての役割を果たしている。
さらに2026年10月12日には、翌シーズンも現役を続けることが報じられた。プロ21年目となる2027年シーズンに向けて、引き続き巨人でプレーする見通しだ。
若い頃の坂本が全試合に出場する遊撃手として活躍したのに対し、2026年は経験と勝負強さを生かす選手へと変化している。
【プロの結論】坂本勇人が若い頃から成功できた3つの理由
坂本勇人のキャリアを幼少期から振り返ると、プロで長く活躍できた背景には、単なる身体能力だけではない要素が見えてくる。
1. 幼少期から身につけた基礎体力小学5年生から毎日5〜6キロを走っていたエピソードは象徴的だ。
遊撃手は打撃だけでなく、守備範囲、俊敏性、試合を通じた持久力も求められる。
幼少期からの走り込みや野球への継続的な取り組みは、後のレギュラー定着を支える基礎になったと考えられる。
2. 金沢成奉監督が見抜いた身体の使い方坂本の高校進学は、本人の希望だけで順調に決まったわけではなかった。
その状況を変えたのが金沢監督だった。
中学時代のティー打撃からスイングの柔らかさを評価し、獲得を決断したことは、選手の才能を見極める指導者の目の重要性を示している。
高校時代に一時退部を考えるほど指導者と衝突したことも、金沢監督自身が2020年のデイリースポーツへの手記で明かしている。
その後、坂本は練習への姿勢を改め、プロ入りに向けて成長していった。
3. 若いうちに大きなチャンスをつかんだこと2008年のレギュラー定着には、二岡の故障というチーム事情も関係していた。
しかし、与えられた機会を生かし、144試合に出場したのは坂本自身の実力と継続性によるものだ。
19歳で一軍の遊撃手としてシーズンを戦い抜いた経験が、翌年以降の飛躍につながった。
坂本の若い頃の成長を振り返ると、才能を見いだす指導者との出会い、競争環境、チャンスを結果につなげる力が重なっていたことが分かる。
【坂本勇人若い頃】に関するよくある質問(FAQ)
Q1:坂本勇人は幼少期に田中将大と同じ少年野球チームだった?
A1:はい。兵庫県伊丹市の昆陽里タイガースで一緒にプレーしていました。小学生時代には坂本が投手、田中将大が捕手というバッテリーを組んでいました。
Q2:坂本勇人は高校時代にどこの高校に通っていた?
A2:青森県の光星学院高校です。現在の八戸学院光星高校にあたります。1年生の秋からレギュラーとして活躍し、2006年春のセンバツに4番・遊撃手として出場しました。
Q3:坂本勇人は2006年のドラフトで巨人から何位指名された?
A3:高校生ドラフト1巡目指名です。巨人は当初、堂上直倫を指名しましたが、抽選で外れたため坂本を指名しました。いわゆる外れ1位にあたります。
Q4:坂本勇人のプロ1年目の成績は?
A4:2007年は一軍で4試合に出場し、3打数1安打、打率.333、2打点を記録しました。本格的にレギュラーへ定着したのは翌2008年です。
Q5:坂本勇人の若い頃の背番号は61だった?
A5:はい。2007年のプロ入りから2008年まで背番号61を着用していました。2009年から現在の背番号6に変更されています。
Q6:坂本勇人は2026年現在も現役?
A6:はい。2026年10月時点で37歳、巨人の内野手としてプレーしています。2026年10月には翌シーズンも現役を続けることが報じられました。
坂本勇人の若い頃を振り返ると、華やかなプロ野球人生の裏側には、少年時代からの努力と、進学先に悩んだ時期、指導者との出会いがあった。
小学1年生から昆陽里タイガースで野球を始め、田中将大と競い合った少年時代。高校進学前には進路が決まらず苦労したが、金沢成奉監督に才能を認められて光星学院へ進学した。
高校では1年秋からレギュラーとなり、2006年の高校生ドラフト1巡目で巨人に入団。2007年のプロ1年目を経て、2008年には144試合に出場する遊撃手へと成長した。
2026年現在は37歳となり、通算300本塁打を達成したベテラン選手として新たな役割を担っている。
若い頃の写真に写る坂本勇人と現在の姿を比べると、見た目だけでなく、背番号やチーム内での立場、求められる役割の変化も見えてくる。
坂本勇人の魅力は、若い頃からの才能だけではなく、与えられた環境で成長し続けてきたキャリアそのものにある。 2027年以降も、その経験を生かしたプレーに注目したい。